巻頭言 2006年1月 |
新年を迎えて
牧師 犬塚 修
私は完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください。私の足はまっすぐな道 に立っています。聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。詩篇26:11〜12 |
アメイジング・グレース
その美しい輝き、私のような堕落した者も救ってくれた。一度道を見失った私だけれ
ど いまは神に見出された。眼が見えなくなっていた私だけれど いまは見える。私
の心に畏れを教えてくれたのも神の恵み、そして、その畏れから解放してくれるのも
その恵み。最初に信じたそのときその恵みが、どんなに貴重に思えたことでしょう。
多くの危険 苦難 誘惑を避けて 私たちはここまで来ることができた。ここまで安
全に来られたのも、神の恵みのおかげ、その恵みが私達を家まで導いてくれる。太陽
のように明るく輝いて 私たちがこの世で千年生きたとしても、私たちは最初に歌い
だしたときと同じように、神を賞賛する歌を歌っているでしょう。▲かつては奴隷船
の船長であったジョン・ニュ−トンは大嵐にあい、死の恐怖におびえ、思わず「主よ
、助けて下さい!」と叫びました。主はその祈りに応えてくださり、奇跡的に命が助
かりました。主の救いの恵みに感動したジョンは、後日、すばらしい証しをする者と
なりました。さて、私たちは新しい年をどのような一歩を踏み出そうとしているでし
ょうか。ジョンのように、神の恵みを偉大と賛美して、感謝と喜びに包まれていきた
いものです。どんな試練が押し寄せようとも、主に絶大な信頼を寄せて、歩んでいき
ましょう。主のみ心を求めて生きる人は必ず、宝石にもまさる豊かな祝福を得ます。
完全な道とは主が導かれる愛と賛美の道です。
「あたりまえで平凡な生活を主と共に」
牧師 犬塚 契
人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。 ミカ書6章8節 |
うぐっ、大晦日と元旦の境目をなんの感慨もなしに過ごしてしまった。いつもなら、
ひそかに時計を見ながらカウントダウンでもしているところなのに、気づかずにパソ
コンの前で時間が過ぎた。しばらくして、携帯メールに「おめでとう」と届いて年が
明けたことを知った。せっかくだから、日の出でもみればよかったのに布団に入った
。なんだか新しい年の迎え方を間違ったように思った。そのせいか、年が明けてもし
ばらく2005年の続きを生きているようだった。2005年13月?▲預言者ミカを通して語
られた神の言葉で、新しい年をどう生きたいのかが明確になった。南王国ユダがアッ
シリアにつくか、勢力を増してきたエジプトにつくかで、国が分かれ、政治的には不
安定だった。文化的にはアッシリア・エジプトの異教文化が入り込んでいた。社会的
には富める者の搾取と傲慢が幅をきかせ、暴力と金で動く社会が広がっていた。そこ
に田舎出身の預言者を通して神が語られる。▲正義を行い、慈しみを愛し、へりくだ
って神と共に歩むこと。地に足をつけ、今与えられている毎日を過ごしていきたい。
あたりまえで平凡な生活の中で、毎日を神にささげる礼拝の日として神と共に歩む一
日一日、そして一年でありたい。
「奉仕と主の救い」月間の中で
牧師 犬塚 修
「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、い たわり、御自分のひとみのように守られた。鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけ り、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」 申命記32:10〜11 |
「神様はどんな悲惨の中でも信ずる人、祈る人を見捨てられません。人間はどんな低
いところに落ちても、神の手よりも低いところに落ちることはありません。」(ミュ
ーラー・信仰短言「暁に翼をひろげ」から)
「ものの見方」はとても大切です。もし、私たちが否定的な見方にこり固まってい
るならば、すべてが否定に見え、逆にあらゆるものを肯定的に見る信仰の訓練ができ
ているなら、どんな災いも祝福に変える力を持つのです。イエス様の十字架ほど悲し
い出来事が他にはありません。それは敗北と悲惨そのものです。けれども、主の弟子
たちは、この十字架を救いの成就として確信し、復活の光を垣間見ました。これこそ
が真理だったのです。最悪、最低の出来事を最善、最高として見直すのです。私たち
の周囲が荒野、不毛の地、また安穏と暮らしていた巣が揺さぶられる現実は、私たち
に耐えられない不安と恐怖をもたらすでしょうか。否です。主の僕モ−セは、その悪
しき環境を善としてとらえました。彼は主がその場で、私たちを見出し、見つけ、囲
い、ひとみのように守られる神のみ業の場として理解したのです。先日、冬枯れの桜
並木を通りました。何の変哲もない、眠っているような桜の樹が、あと三ヶ月もすれ
ば、満開の桜並木となるのです、その幻がはっきりと心の目に見えたように感じまし
た。確かにまだ見ていないが、間違いなく現れる主の恵みを思い、心に深い感動を覚
えました。
2006年1月22日
先週の説教要旨
牧師 犬塚 契
主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩 ませわたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこ ぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む。詩篇40編2〜4節 |
悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ、何も見え
なくなりました。その数は髪の毛よりも多く、わたしは心挫けています。主よ、走り
寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。13〜14
節、主にのみ、わたしは望みをおいていたという書き出しで始まる詩篇40編。この
箇所から、先週は詩篇を味わった。どんな課題があったのか、問題が起こったのか、
自分のことか、家族のことか、病か、事故か…具体的に記されていないので、著者が
置かれていた状況はわからない。それでも、耐え忍び、祈りつつ待ち、いよいよ答え
られ、自分では足もつかない泥沼から、岩の上に立たせられた。著者はそんな経験を
した。自分の足で歩んでいるのではない、歩ませられているという自覚、生かされて
いるという謙虚な自覚は、神への賛美へとつながっていく。10節に「決して、口を
閉じません」と記すくらいに彼の賛美は留まらない。しかし、13節以降の様子は
どうなのだろう。同じ40章とは思えない展開。一転して、罪の告白や恐れを吐露す
る。ひょっとしたら、彼が現在生きているのは、13節以降のところであり、だから
こそ12節までの経験を必死に呼び起こそうとしていたのだろうか。▲40編にのみ
ならず、詩篇には、疑いや極度の恐れ、賛美も感謝も、憎しみも卑しさも遠慮なしに
登場する。あまりにも感情が散りばめられ、3000年後の私たちを困惑させるような場
面もしばしばである。はじめは40編も12節まで終わっていれば、準備がしやすい
し、理解しやすいと思った。しかし、今は18節まであってよかったと思う。こんな
にも困惑した40章に、支離滅裂に思える40章に、まさに自らの日常を見るし、そ
れでも「よし」として招きいれてくださる神の姿をみるから。らせん階段のような歩
み。ぐるぐると同じところを回っているようで、少しづつ上に向かっている。同じと
ころを歩いていると感じながら、実は階を登っている。▲ありとあらゆる失敗を自分
で必死に取り繕うのでは神に、「まるごと」もっていく者でありたい。「主にのみ、
わたしは望みをおいていた」で始まる40編は、「あなたはわたしの助け、わたしの
逃れ場。」で終わる。最後まで逃れ場がどこにあるのか、見失わずに、歩みを進める
者でありたい。
「主の計らいによって」
牧師 犬塚 修
あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます。御名に望みを おきます。あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い。あなたの御名に。 詩篇52:11 |
「大丈夫かな…」という漠然とした不安が頭をかすめる時があります。そして、次第
にその憂いが大きくなり、ついには、心がパニック状態になることはないでしょうか
。心配でたまらないという不安定な心の状態は不健全です。
そのような時、私たちの混乱する魂を静め、深い平安に導くものは、聖書のみ言で
す。「主はあなたのために計らってくださる」とあります。私たちはいろいろと気遣
い、心細くなりますが、主は必ず、主が助け、苦境から救い出すと約束されています
。これまでの自分の人生の歩みを省みますと、主は驚くべき救いを与えてこられたこ
とを、改めて思い返し、感謝せずにおれません。主により頼むならば、心配すること
から解放されていきます。「杞憂」は「中国の杞の国の人が、天が落ちてくるのでは
ないかという取り越し苦労をした故事」に由来します。しかし、私たちは心配ばかり
していることはないでしょうか。人生は悩んで過ごすには、余りにも短く、もったい
ないものです。「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を
送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物
だ、と」(コヘレト3:12〜13) 「また、キリスの平和があなたがたの心を支配するよ
うにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とさ
れたのです。いつも感謝していなさい」(コロサイ3:15)とパウロは力強く書いていま
す。主の計らいは私たちの予想をはるかに超えています。ヨセフは若い頃、兄たちの
裏切りを受け、遠くエジプトの地に奴隷として売られていきました。その事件は、ヨ
セフの心に深い傷跡を残したのですが、後日、彼は知るのです。それは自分にとって
悲劇以外の何ものでもなかった出来事の背後には、主の遠大な計らいがあったことを
。そのことを悟ったとき、彼の心から憎しみとうらみの感情がなくなっていきました
。彼は自分の人生に深遠な意味と意義、そして価値を発見したのです。そして「あな
たがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救う
ために、今日のようにしてくださったのです」(創世記50:20)と信仰の告白をしまし
た。もし私たちが主の計らいが完全であると確信するならば、私たちの生き方は、さ
らにリラックスしたものとなるでしょう。ストレスで悩むことも激減するでしょう。
自分の思い込みにとらわれないことです。私たちは人生の支配者ではありません。過
度の責任感や義務感で押しつぶされてはなりません。主のみがすべてを統御されるお
方なのです。たとえ、うまく事が進まなくても、大丈夫です。主がその失敗を成功に
変えるように最高の計らいをして下さいます。