巻頭言
2005年1月


2005年1月2日

新年礼拝に臨み---「教育と真理」月間を覚えて

牧師 犬塚 修

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネ1:14

約10年前、妻と共にイスラエルに行った時、驚いたことがあります。それは子 供から大人まで、聖書のみ言を命のように大切にしている生活を見たことであ ります。空港で忙しそうなビジネスマンが、突然バッグから小箱を取り出し、 それを頭の額に巻きつけて、祈り始めたのです。それは申命記6:〜9の「あな たはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし 、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない 」の実践でした。彼は数千年前の命令をそのまま実行していたのです。私たち がみ言に命をかけるのは、過去2000年に及ぶ教会の苦難の歴史の歩みで、神の 言こそが、真に頼りになる確実なものだという信仰によるのです。私たちの心 の細胞にみ言かしみ渡っているならば、どんなに力強い生き方が可能になるで しょうか。現在、日本は厳しい現実に直面しています。真実に生きるためには 、み言に基づく新しい視点が必要です。それを持つかどうかが人生の分かれ道 となります。み言は私たちにとって精巧な望遠鏡と似ています。それがあれば 、肉眼では見えない広大な宇宙を、また銀河系の星々も見ることができます。 将来という見えない世界もみ言によって、実相が見えてくるでしょう。生活の 中にみ言が「肉となって宿る」体験を積み重ねる事です。私たちが主の言を重 んじるならば、この世の流れに任せてしまったり、敗北する事はありません。 目に見える重い現実が押し迫り、私たちの生活自体をボロボロにされる事もあ りません。何があってもみ言を心に刻みつける生き方を確立する事です。辛い 事、苦しい事があった時、読んだみ言を思い出すのです。み言が新しい世界を 創り出します。私たちは、苦難の中にあって、隠された神の深い摂理と愛を体 験するでしょう。み言を通して、イエス様と喜びの再会をする事ができるので す。



2005年1月9日

「スチュ−ワドジップ」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

「彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土 を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持 って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルと その献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかっ た。カインは激しく怒って顔を伏せた。                  創世記4:2〜5

今年一年、満ち溢れる神の祝福を得る秘訣は、アベルのような真実な応答の生 き方にあると信じます。弟アベルとはヘブライ語で「息、蒸気」というどこか 弱々しい響きがあります。それに反して兄カインは「鍛冶屋、所有する」とい う力強い意味ですので、人間的に見るとカインの方が大変魅力的に見えます。 しかし、主は人の心の外見などではなく、内面を御覧になるのです。アベルは 羊飼い、カインは農夫となりました。ある日、二人は神様に捧げ物を差し出す 時が来ました。カインが汗水垂らして、必死でがんばった結果、これだけの豊 かな収穫を得たのは、神様のお陰ではなくて、すべて自分の力によるものだと 考えたようです。そして、捧げ物を惜しみ、奉献の業は形だけの儀礼的なもの となりました。一方、アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を捧げました 。それは、心からの神様への感謝の心を示す行いでした。彼にとって日々の歩 みは主の驚くべきあわれみと恵み以外の何物でもなく、心から主に感謝したい 思いで一杯だったのです。主はその精一杯の感謝の捧げ物を喜ばれました。ま た、主はカインの捧げ物を嫌われたのではありません。主は彼もまた深く彼も 愛されていたことは「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。」(6節)と 心配して話しかけられたことから理解できます。だが、カインは主の愛を信じ ることなく、暴走していきました。この後、彼は「弟殺し」という事件を起こ します。アベルの主への感謝は喜びの源となりましたが、カインの憎しみは殺 意の温床となってしまったのです。自分に与えられたものの凡ては、主の恵み と賜物であり、自分は恵みの管理者であることを感謝して歩みたいものです。



2005年1月16日

「教育と真理」月間の中で

牧師 犬塚 修

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる 。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探 す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」            マタイ7:7〜8

主は私たちの状況をあえて困難に導く事で、私たちを温かくまた厳しく教育し て下さいます。イスラエルの民が信仰の訓練を受ける所は、美しい花園ではな くて、荒涼とした荒野でした。私たちも失望の谷に落ち込み、悲しみの砂漠を うろつき、疑惑の沼に足を取られ、苦しみの荒野でさまよう時があります。イ エス様ご自身も、荒野で試みに遭われました。「イエスは悪魔から誘惑を受け るため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた」(マタイ4:1)主の教育を受ける 意味は、その人は主に愛されているからであり、苦しい試練に耐えたのちに、 豊かな命を輝かす可能性に溢れた人であるからです。「なぜなら、主は愛する 者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12: 6) 私たちは与えられた試練から何を学び得るのでしょうか。今月は「教育と 真理」月間ですが、「真理」は「ありのまま」という意味が含まれています。 即ち、私たちは失望や絶望から、少しづつ、ありのままの自分を発見してきま す。それは惨めで限界を持った、弱い罪人の自分です。その事実を早く気付く 事です。主の無尽蔵の祝福は打ち砕かれた魂に豊かに注がれます。私たちは失 意によって、不信仰に堕ちて行くのでなくて、自分の限界を知れば知るほど、 自分に残された道はただ一つしかないと悟るようになります。それは「祈りの 祭壇」を築くという決断であります。辛い問題があると真剣に祈らざるを得ま せん。必死で祈りの扉を打ちたたき、この業に命がけで打ち込むならば、溢れ る祝福が主から与えられます。求めても得られないならば、更に強く探しまし ょう。それでもまだ不十分ならば、何度も何度も門をたたき続けましょう。決 して諦めてはなりません。忍耐強い不屈の祈りこそが状況を変える最大の力な のです。



2005年1月23日

ほめて下さる主

牧師 犬塚 修

「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛 美します」と言い、……更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えて くださった子らがいます」と言われます。           ヘブライ書2:12〜13

上記のみ言は詩篇22:23とイザヤ書8:17〜18からの引用です。「あなたを賛美 します」は神に対する言葉で、その意味は良く分かります。しかし、驚くべき 事ですが、この詩篇の一節を、ヘブライ書の記者は「主がご自分を信じる者に 対して語られた賞賛の言葉」として新しく解釈しています。更にイザヤ書も引 用して、私はあなたを私の子として喜んでいると明記しています。私達はあま り自分のことをほめません。むしろ、欠点だけが気になりますが、イエス様は そんな私達をほめたたえて、あなたはすてきだ、あなたは私の誇りだ、と断言 されるのです。他の箇所にも神の賞賛が記されています。「喜び躍れ。わたし は創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び 楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を 楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」(イザヤ 書65:18〜19)私達への主の賛美の言葉が心に素直に受け入れられないのは、 不信仰のためというよりも、自分の心中に悲しいまでの自己否定の習性が潜ん でいるからでしょう。私達は幼い時から今に至るまで「そのままではいけない 、もっとできるはずだ」という誰かの期待がのしかかったまま、今もなお、期 待という重荷を背負ったまま生きてしまいがちです。必死で期待に答えようと しては及ばず、自分自身を失い、疲れ果て、自分はダメな奴だと思い、自己卑 下したり絶望してしまうのです。しかし、イエス様は「私はあなたのために死 に、すべての罰と呪縛を取り除き、今、復活して生きている。ゆえにあなたは それでもOKだ」と優しく語られます。その言葉を信じて受け入れた人は、怠 惰な者とはならず、自己信頼を取り戻して、自由となり、豊かな成長を遂げま す。



2005年1月30日

人の愛と神の愛

牧師 犬塚 修

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたした ちは愛ということを知った。                 第一ヨハネ4:16

愛は私達に生きる喜びを与えてくれます。もし、この世界に愛がないならば、 私達の心は絶望という暗黒と氷の世界で凍え、震えるでしょう。愛は大別する と二つに分けられます。第一は、人間的的な愛です。これはその人が愛される にふさわしい魅力があるという理由で慈しむ愛です。私達は人のすばらしさに 心惹かれるものです。これはとくに芸術のような世界における真善美の追求と して大切です。だが、この愛にも弱点があります。それは人の魅力がなくなる と、途端に冷酷、無関心になり、無意識的に捨ててしまうという一面です。そ れは同時に、自分に価値がなくなったならば、見捨てられるという危険性があ る事を意味します。人の愛はどうしても条件的、相対的、一時的になるきらい があります。人の愛だけではフラストレ−ションがたまってしまい、精神的に 疲れ果ててしまうのです。もう一つの愛は無条件、無尽蔵、永遠という絶対的 な愛です。たとえ、自分や他者がいかに惨めな者となっても。決して変わらな い不朽の愛です。もし、私達がそのような愛を豊かに受けるならば、日頃の疲 れた魂は若々しく生き返るでしょう。聖書に「神は愛である」(同4:8)とあり ます。この愛は神だけにあるのです。人間の愛はどうしてもエゴイズムになり がちですが、神の愛は自らを犠牲にして示された究極的な至高の愛です。父な る神は十字架上に、愛する御子をつけ、私達を地獄のような苦しみから救い出 されました。それは私達から報いを求めないという一方通行の愛でした。弟子 達は信仰の弱さのゆえに、主を見捨ててしまいましたが、主は彼らの裏切りを 赦されたのです。ゆえに私達も人からの報いや見返りを求めるのではなくて、 真実の愛を確信し、このお方から強い生きるエネルギ−を得て生きる事です。 人にではなく、神に大きく期待して求める事です。それが勝利に至る信仰の道 です。


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