巻頭言
2002年1月


2002年1月 6日

「真実の教会の交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身 を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 (ロ−マ 6:13)

新年おめでとうございます。主の豊かな祝福がこの一年、皆様の上にございますよう、お祈り申し 上げます。1月は「スチュワ−ドシップ(しもべとしての在り方)月間」でもあります。即ち、真実の 教会の交わりとは、主のしもべとしての姿勢が正されるところから生まれます。主は貴いご自身の 血潮を流して、私達の罪や汚れを完全に洗い清めて下さいました。その愛は少しも見返りを求めな い無償の愛でした。それゆえにこそ、私達はその愛に応えて、自分を義の道具としてささげずにお れないのです。以前は私達は罪の奴隷として悪魔の命令の下、自分を見失っておりました。ところ が、今や、私達は主のものとされました。昔は霊的に死んでいた者にすぎなかった私達が、イエス 様の復活によって、新しい永遠の命に与りました。もはや私達はだれの奴隷ではなく、完全に自由 人です。そうされた喜びのゆえに、解放して下さったイエス様のために、自分を生きた聖なる供え 物としてささげたいのです。「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神 に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません」(12::1〜2)今年、主の栄光を現すために、共に目指した い事は不義や罪と勇敢に戦い、自分を復活の恵みに生かされている者として喜び、主に赦された自 分自身を神に献げる事です。不信仰の思いを敢然として捨て、自己中心、高ぶりを砕き、否定的な 考え方をやめ、神への絶対的な信頼する従順な生き方を貫いて生きていきたいものであります。




2002年1月13日

主との真実の交わり

牧師 犬塚 修

キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、 そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 (第一テモテ1:15)

テモテ書はパウロにとって、最晩年の手紙と言われています。彼は人生の円熟期におい て、自らの生涯を回顧しています。そして、パウロは「罪人の中で最もひどい人間です」 と告白しているのです。あの偉大な人物が…と驚きを覚えます。しかし、その告白にも どこか明るい感じが漂うのはなぜでしょうか。それは自らを罪人と言う時、そこには自 己嫌悪や自己卑下という否定的な感情が、少しも混じっていないからと思います。彼は 自分の罪を知るにつれて、いよいよイエス様の真実と愛の巨大さに圧倒されているので す。パウロとはヘブライ語では「主を求める」という意味ですが、その名前の通り、一生 涯にわたって主の愛を信じ、幾多の苦難にも屈することなく、信仰の道を歩き続けまし た。また自分のような小さな者が、こんなに主の愛を一人占めして良いのかと、ただ主 に感謝をささげています。このように、主との真実の交わりは悔い改めと感謝に土台を 置くのです。その真摯な信仰の姿勢に心打たれる思いにかられます。しかし、時として、 砕かれていない古い自分を前面に出し、主への感謝を忘れる時があります。自我に支配 されると喜びは遠ざかり、その目線から見える光景は暗いものばかりとなるのではない でしょうか。逆に、自分を罪人のかしらという視点で現実を静かに、見つめるならば、 これまで隠れていた主の恵みが見えてくるでしょう。そして、感謝、讃美、平安、喜び という主の賜物が、私達の心に豊かに育っていくようになるのです。「主において常に喜 びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4) 悔い改めと感謝、又喜びは私達 の羅針盤です。




2002年1月20日

 自尊心の大切さ

牧師 犬塚 修

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがた が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に 願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」 (ヨハネ15:16)  

私達にどうしても必要なものは、自尊心です。もしこれがなくなったら、私達の魂は 死に至ります。それほどに、自分を価値ある者として受け入れることは重要なのです。 これは決して傲慢ではありません。傲慢とは自分を人と比較して尊大になる事です。 悪事をなす者の特徴は自分に対する絶望感、自己卑下という荒れすさんだ心と言われ ます。自分を世のくずのように誤解し、少しも尊敬できないと、人にも、憎しみをぶ つけたくなる衝動に駆られるのです。神は私達に「あなたにしかないすばらしい美点や 価値がある」と強く語られます。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなた を愛し(イザヤ43:4)それは私達の良い行いに対してではなく、存在そのものに対して言 われているのです。あなたはこの世で愛が深く、才能が豊かで、とても役に立つから、 すばらしいと言われるのではありません。それは行いに向けられた人間の評価です。こ れも大切ですが、それだけならば、私達は良い子を演じ続けねばならなくなり、ついに 疲れ果てるでしょう。神は「ただあなたがここに生きてくれているだけで、それだけでも 十分なのだ」と言われます。これが存在そのものに向けられた神の愛の吐露なのです。人 間は愛する人にも無限の愛を注ぐ事は不可能です。この愛は神から来るのです。その事 が分かると、私達は自分を着飾らなくなります。緊張して身構えて生きなくても良いと 悟ります。自然体の生き方で良いのです。私達は選ばれた宝物の存在として生きる事が できます。信仰に基いた自尊心に立つ時、私達は明るく自信に満ちて、前向きに進む事 ができます。




2002年1月27日

自分のためではなく

牧師 犬塚 修

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟 である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:12〜13) 

アメリカ映画において不朽の名作と言われる「市民ケ−ン」は主人公が自分の欲望、野心、 栄光を求めて生きたきわめて人間臭い壮大なドラマです。ケ−ンは莫大な富、栄光、権力、 名誉などほしいもののすべてを手に入れる事ができた希有な人物でした。ただ一つを除いて。 それは真実の愛でした。彼は一人の無名で貧しい女性歌手を愛し、何とかして成功させ、 名声を得させようと努力しました。しかし、それは、自分の思い描く理想像にその人をあ てはめ、馬車馬のように駆り立てる事にすぎませんでした。そして破局が訪れます。 二人は別離し、その後、彼も失意と絶望の中で死んでいくのでした。何が間違ってい たのでしょうか。有り余るような富も力も、二人を幸福にしてくれませんでした。 彼は人間は自分の能力を信じ、努力さえすれば、必ず道は開けると確信していました。 事実、彼はこれまで、そのように努力してこの世の栄光を勝ち取ってきたのです。 ですから、彼は必死で「あなたにもできるはずだ」と激励したのです。しかし、それは徒労 に帰するものでした。なぜならば、その人の本当の生きる道や幸福はそこにはなかったからです。 愛とは相手の心の奥深くにある本音の叫びに耳を傾け、共に同じ思いで生きる事ではない でしょうか。愛は自分の鋳型に無理矢理に相手をねじ入れる事ではありません。得るより ももっと大切なもの、それは失うこと、受け入れる事です。「自分の命を救いたいと思う者は、 それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9:24)「わがまま」と は「自分が思うままにふるまう事、気まま、身勝手」(広辞苑)です。主のために大切なものを 捨て去る時、我執やこだわりから自由になるのです。



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