巻頭言 2001年1月 |
「勝利と伝道」について
牧師 犬塚 修
「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように 見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、 わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 (ローマ8:36〜37) |
明けましておめでとうございます。
勝利はだれの目にも明らかという形で来る時
があります。しかし、人の目には隠されものとして現される勝利もあるのです。
この場合、勝利はロ−マ皇帝アウグストスのような人間的な威厳や権力、ある時
は暴力的な圧迫によってもたらされるものではなくて、飼い葉桶に寝かされたみ
どり児イエス様のように、全く無力な状態で与えられるのです。それはまた、屠ら
れる羊のような一見敗北に見える形で来るのです。
「彼は軽蔑され、人々に見捨て
られ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたし
たちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ53:3)
この苦難のイエス様と出会うた
めには、私たちも同じように人々に見捨てられ、痛みや軽蔑を味わう必要もある
のです。もし、私たちが知らず知らずの内に、傲慢になり、目線が高くなり、人
を見下すならば主は見えなくなってしまいます。
羊は確かに傷つかれやすい弱
い動物です。羊は狼に襲われたり、ある時は殺されたりします。しかし、彼ら
は羊飼いに絶対的に従順でした。従順さこそが彼らの未来を輝かしいものとし
ました。イスラエル人も多くの国でいじめられ、侮辱されました。しかし、彼
らの中には生ける神がおられました。神は弱さの中にある人々を特別に愛し給
う神でした。彼らはその苦難の中で、少しずつ実力を貯えていきました。彼ら
は自分の足りなさを痛感していましたので、それを克服するために必死で神
を求めました。それが彼らに奇跡的な勝利をもたらしたのです。
私たちも主に
全く信頼する事で輝かしい勝利を収める事が可能になるのです。
すべてに時がある
牧師 犬塚 修
何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、 死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建て る時 泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、 石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、 抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、 裂く時、縫う時、黙する時、 語る時…。 コヘレトの手紙3:1〜8 |
「春夏秋冬」という言葉は私達に生きる知恵を教えてくれます。花咲く春、燃える夏、
紅葉の秋、深閑とした冬という四つの季節は、すべてのものは変わり、移り行くことを
見事に現してくれます。いかに鮮やかに萌え出でる春であっても、一年中春ばかりであ
ったら、日々は色褪せたつまらないものに感じられることでしょう。
その意味では、
突然起こる激変や別離やどうしようもない出来事も、すべて恵みというリンクにつな
がれているのです。もし、私たちが旧態然とした考え方や生き方を続けるならば、主の
ご計画は実現しないでしょう。主のみ旨が実現するためには、どうしても痛い犠牲が
伴うものです。
冬の日に枯れた木の葉は、ユラユラと音もなく地に落ちていきます。
そして、それが土そのものの養分となるのと似ています。主のみ旨が成就するために
はどうしても新しい息吹き、また新しい皮袋が必要なのです。時代は新世紀に突入し
ました。私たちに求められているものは、古いものを捨て去り、主の敷かれた道を歩
む確信です。
「こういうわけで、私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れ
に囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められ
ている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者である
イエスを見つめながら。」(ヘブル12:1〜2)
大きな報いを求めて
牧師 犬塚 修
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。 (ヘブライ10:35) |
私たちは現実だけを見ていると、絶望したり、落胆してしまう事があります。
何となく足が泥沼にとられてしまったかのように感じられ、将来が重く、また暗く
見えてしまいます。そして、生きる自信がなくなり、無為に時を過ごしてしまいが
ちです。それは空しい生き方です。何とかしてそのような状態から這い出ようとも
がくのですが、中々、立ち上がりのきっかけがつかめず、悶々としたまま、時だけ
が過ぎていきます。どうしたら良いのでしょうか。
旧約の預言者ハバククは折角、
耕した畑が無残にも不毛となったという哀れな現実に打ちのめされました。彼は
そのような厳しい中で、次のように叫んでいます。「オリーブは収穫の期待を裏
切り…牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの
神のゆえに踊る。わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、
聖なる高台を歩ませられる。」(ハバクク3:17〜19)どうして彼は、このように
「しかし!」と勇気を持って叫び、不死鳥のように立ち上がる事ができたので
しょうか。
それは彼の明確な神への信仰によりました。彼は主の力によるなら
ば、不毛さえも大収穫に変わると確信したのです。「私は落ちるべき所まで落
ちた。これからは主の力によってやるしかない。たとえ、どんなに失敗しても
勇気を振り絞って立とう。」という彼の内なる声が響きます。それは何度倒され
ても立ち上がるダルマに似ています。主のみ言に必死でしがみつき、確信を失
わない人は、助けと大きな報いを獲得します。最低に落ちた人は、絶望を味わ
った分、深い叡智を得たのであって感謝して良いのです。
勝利の秘訣
牧師 犬塚 修
「イスラエルよ、聞け。あなたたちは、今日、敵との戦いに臨む。心ひるむな。 恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、 敵と戦って勝利を賜るからである。」申命記20:3〜4 |
今日、自分がしなければならないことがあるとします。ところが、それをなす時
間が足りないと感じて焦りますと、物事がうまくいかなくなるものです。そんな
時は、落ち着いて、むしろゆったりと構えることです。「大丈夫。これをしなく
ても、神の支配は少しの変わらない。主の守りがあるのだから、事態は決して悪
くはならない。」と確信し、心を平安に保つことです。あわてると失敗する確率
が高くなります。
上記のみ言は私たちに進むべき道を示してくれます。私たちはなぜ
急いでしまうのでしょうか。その理由は自力や努力に力点を置き過ぎるからです
。人間的な力で過度にガンバってしまうのです。しかし、勝利は主から与えられ
ます。勝利を得るためには絶えず祈り続けることが大切です。3時間熱心なわざ
をするよりも、3時間心をこめて祈った方が効果的な時が多いのです。
けれども
、これは易しいことではありません。私たちはいつの間にか「忙しく動くことは美
徳」という考え方を持っていますので、何かしていないと不安にかられてしまい
ます。日常生活の中で、腰を下ろして祈ったり、またゆったりとする時間がドン
ドン削られてしまい、「さあ、しなさい。しなさい。」という後ろから追いたてら
れているような強迫観念に支配されがちです。
忙しいと感じたら、むしろ仕事を
一時的にやめてみましょう。祈った後はふしぎに以前よりもスム−ズに仕事もは
かどるものです。主は私達との深く長い祈りによる交わりを非常に喜ばれます。
そして又「ゆったりと流れる大河のようなおおらか」で進むならば、勝利を得られ
るでしょう。