巻頭言
2000年1月


2000年1月 2日

2000年の新年礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

「イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神、 わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。 わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のよう になる。」(イザヤ48:17〜18)

新年明けましておめでとうございます。ついに私たちは2000年という新しい時代に 生きる人間とされました。その恵みを数えますと、私たちは「生きる」のではなく、 主なる神に「生かされている」のだと痛感いたします。

今から100年前はまだ飛行 機も存在していませんでした。しかし、その後の驚異的な発展により、人類は月に まで到着しました。これからどんな事が起こるのか、想像もできません。

ただ言え ることは私たちが、天地創造の聖なる神、贖い主に真実に応答し、信仰と従順にて 歩むならば、私たちの道は平安と祝福に満ちたものとなるということです。万一試 練が押し寄せてくる辛い時期があったとしても、主は私たちをその中でも、子として 訓練し、更にすばらしい救いの道へと導かれます。そして、苦悶の只中で、私たちの心 に豊かな神から来る平安が与えられます。また恵みは海の波のように寄せては返すとい う連続的なものとなります。

そのことを思いますと、心に感謝と希望が満ちてきます。 私たちはこの世では、決して孤独ではありません。インマヌエルの主がともに歩んで下 さるのです。「わたしに聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わた しはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたた ちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:3〜4)




2000年1月9日

綱渡り?

牧師 犬塚 契

どうか、我が悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。わが魂 は絶えずこれを思って、我がうちにうなだれる。しかし、わたしはこの事を心に思い 起こす。それゆえ、わたしは望みいだく。主のいつくしみは絶えることがなく、その あわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」 (哀歌3:20〜23:口語訳)

フラー神学校教授ルイス・スミ−ズが書いている。「私が赦し以上に必要としていたのは、 神が私を受け入れ、私を所有し、私を抱き、私を承認し、たとえ神が御手の上にあるもの に対してあまり感銘を受けないにしても、決して私から離れないという感覚だった。」

綱渡りのような信仰生活だと思う事がある。落ちないように必死にがんばる。よそ見なんて していられない。フラフラしながら、それでも「落ちたら大変だ」と一生懸命。けれどもそ んな中、ふと思う。「たとえ落ちても、落ちたところに、神様はやっぱり居て下さるんだろ うな」って。片意地張って何を案じているのだろうか。

上記の御言葉のように、「我がうちにうなだれ」ながらも、やはり「わたしは望みをいだく。 朝ごとに新しいあわれみを信じ、確認していきたい。あわれみやいつくしみは、尽きることが ない」と書いてあった。今まで何度、その事を確認できただろうか。足りない私は取りこぼし も多かった。しかし、朝ごとに新しいあわれみといつくしみは今日もまた用意されているのである。

聖別が今月のテーマである。「聖人君子を目指してがんばろう」というものでない。「立派なク リスチャンになろう」というものでもない。聖別されねばならない自分を見つめ、ただ神のあわ れみによってそれがなされることを信じていきたい。




2000年1月16日

聖別されていく教会とは

牧師 犬塚 修

キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 (エフェソ2:21,22)

1月8日の年頭アシュラムにおいて、私たちは豊かな恵みを戴きました。教会の中心はキリスト であります。私たちがキリストに従い、何とかしてキリストの体である教会のために生き、 また、キリスト中心の生き方を心がけるならば、いかに喜びに溢れることでしょうか。

次に、「組み合わされる恵み」です。家は色々なもので成り立っています。もし、部品の どれかが欠けたならば、家は崩壊する危険性が生じます。このように教会の中では一人として 不要な人はいません。皆が大切な主の宝物です。私たちは各々、全く個性の違う者同士であり ます。しかし、そんな私たちが主にあって一つとされるのです。これはすばらしいことです。 自分に欠けた所が他者によって、補われることで、ジグゾ・パズルのように全体の絵が完成して いくのです。

教会も同じように、いろいろなタイプの人が組み合わされて、すばらしい建物とされて行きます。 この世には完全な人はいません。皆、どこかに欠陥があります。けれども、それで良いのです。なぜならば、 その欠点があってこそ、共に助け合って生かされる喜びがあるからです。

また、教会の歩み方 は、一重に聖霊の働きによるということです。人間的な努力で何かを成し遂げることができる のではなく、すべては聖霊のみわざによるのです。ここに私たちは平安と慰めがあります。

最後に「神殿」とありました。これは仮小屋とは異なり、壮麗なエルサレム神殿を彷彿とさせます。 私たちは、主の導きによって、そのような教会の大きな夢を与えられているのです。




2000年1月23日

マイロード

牧師 犬塚 契

わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けて下さる。 生涯わたしは主を呼ぼう。(詩編 116:1,2)

小田急線本厚木駅でおりると、厚木ミロードが見える。それは、英語で“myLord” と書いてある。“my”と“Lord”の間に空白があれば、“マイロード”「我が主」 と訳せる。「♪ミロードはマイロード、マイロードは我が主♪」と鼻歌交じり、少し嬉 しい気がして街を歩く。

「わたしは主を愛する。」と詩編にある。「わたしたちは」ではなく「わたしは」なので ある。イエス様もペテロに迫った。「あなたはわたしを愛するか?」「あなたは、わたし に従いなさい」。「あなた」と「わたし」の関係であって、「あなたたち」や「わたしたち」 の関係ではない。

なされる証しはハッピーエンド、祈りの答えは感動的に、打てば響く聖書の御言葉。昔は、 それがクリスチャンの世界だと思っていた。信じていれば、裕福になり、成功し、癒され、 平安で生きていけると思っていた。もちろんそれも神様からの祝福であるに違いない。 しかし、それと同様に貧しさの中に、挫折の中に、病気の中に、疑いと迷いの中にも、 やはり神様が働いて下さっていることを知った時、無性に嬉しかった。

詩編が「聖書の真珠」と呼ばれるのは、痛みや悲しみ、もどかしさと葛藤の中で、それをご まかさず、それでも「わたしは主を愛する」、それでも「生涯わたしは主を呼ぼう」と告白し ているからだと思う。

「聖別されていく」とは神様との交わりを絶やさないことでもある。神様は「わたし」と の交わりを切に求めておられる。良い行いを歯をくいしばってする事でなく、聖いフリす る事でなく、交わりを絶やさないこと。いつでも「マイロード」「我が主よ」と言っていきたい。




2000年1月30日

神に感謝して生きる

牧師 犬塚 修

わたしはなんと惨めな人間でしょう。死に定められたこの体から、だれがわたし を救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝 いたします。(ローマ 7:25,26)

ソクラテスは「汝自身を知れ」と言いましたが、確かに自分を知ることは大変重要な ことであります。たとえば、もし、自分の正しい病名を知らないならば、どうして 治療できるでしょうか。

しかし、本当の自分を知ることは決して気楽なことではありません。むしろ、苦痛を 伴います。むしろ病気のままでいた方が楽なのです。もし治るならば、この世の冷たい 風が骨身にしみることが分かっているからです。

そこで、私たちは現実逃避の誘惑にかられるのです。だが、逃避的な生活はいつまで 経っても、本当の解決にはなりません。どこかで、自分の生き方にけじめをつけなければ ならない時がきます。それは、古い自分から脱却する決断の時です。

パウロは自分の正体を告白しています。何と言う惨めさかと…、ここに彼の信仰のすばら しさがあります。彼は自分のありのままをそのまま打ち明けています。少しのプライドも ありません。まるで、赤子のようです。そして、イエス・キリストだけが絶望的な自分を 救ってくださると断言しています。そして、全身全霊で主にまかせています。パウロにと って、キリストとは絶対者でした。愛をもって、すべての罪を赦されるお方でした。 パウロは自分のちっぽけな可能性にかけることなく、神のご計画にゆだねて、大胆に 前進する道を選びました。ここからすばらしい救いの門が開かれていきました。主に 委ねて生きることで、すばらしい実を刈り取るのです。



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